■STEP1(1975~1994年)/幼少~青年期 ~素地づくり~
1975年(昭和50年) 神奈川県鎌倉市二階堂生まれ。
3~4歳ぐらいの頃には、大の「魚好き」が芽生えており、その原点となるのは近所にある魚三商店(雪の下にある老舗魚屋)と思われる。川遊びといえば二階堂川(滑川の支流)、磯遊びといえば和賀江島、そして魚の調達といえば小坪漁港(漁師が廃棄したB級魚をもらう)が定番コース。出逢った魚に対しては、何にでも興味を示した。
小学生になると、二階堂から台(台峰の麓)に引っ越す。「魚捕り」と「飼育」の楽しさに目覚め、身近で捕れるドジョウから始まり、やがて日本に生息する淡水魚コーナーが出来上がる(湖沼・河川・渓流魚など)。そして夏休みになれば、海で捕った生き物も追加され、私の部屋は居住を共にする小さな水族館と化した。
11歳(小学校5年生)の頃、私の将来を方向つける2つの出来事が起こる。1つ目は祖父が私にプレゼントしてくれた魚類大図鑑(東海大学海洋学部出版/1986年版)、日本最高峰の魚類図鑑である。当時で5万円もする学者御用達の学術書であるが、この図鑑を手に魚の知識を深めた。
そしてもう1つは、12歳年上のいとこ(従姉)が北里大学(薬学部)出身であったこと。この大学には水産学部があり「そこにはお魚の専門家がたくさんいるよ」と、そんな話で盛り上がった。それまで「大学」というものは、高校の延長上にある程度にしか思わなかったが、魚の専門性がある学部には大いに興味を持ち、「ここに進学したい」と大きな目標となった。そして「いつか水族館で働きたい」と夢を抱くようになった。
中学生になると、ルアーフィッシングを覚え、ブラックバスやブルーギルを相手に近所の池(現在の鎌倉中央公園)に通い詰めた。
高校生になると、フライフィッシングを覚え、トラウト相手に箱根・芦ノ湖にまで活動の場を広げた。自分で作った毛鉤で初めてトラウトが釣れた時の感動は今でも忘れない。またインドアでは、熱帯魚の飼育に夢中になり、この頃から世界中の魚に興味を持つようになった。いかんせん「魚好き」しか取り柄のなかったゆえ、大学へ入るまではとても苦労したが(一浪を経て)、1995年に念願の北里大学/水産学部に入学した。
■STEP2(1995~1999年)/大学生時代 ~基礎作り~
北里大学とは、世界的な細菌学者である北里柴三郎(2024年より新千円札の肖像画になる)を学祖に、1962年に「生命科学の総合大学」として設立された大学である。そこには7つの学部(理学部、獣医学部、水産学部、薬学部、医学部、看護学部、医療衛生学部)があり、私が行く水産学部のキャンパスは、岩手県三陸町越喜来(おきらい)にある(現在は大船渡市に合併)。その三陸を拠点に、水産学の基礎をシッカリ学んだ。
「三陸」という場所は、地理的には東北地方のリアス式海岸に位置しており、初めてその地を訪れる人にとっては、あまりの辺鄙さに驚かされるかもしれない。しかし、その三陸沖の漁場は世界でもトップクラスの豊かさで、日本沿岸を北から南下する寒流(親潮)と、南から北上する暖流(黒潮)がぶつかり、豊富な魚が集まる世界三大漁場(ノルウェー、カナダ、日本)の1つとして知られている。
そんな水産色の強い土地柄、学生時代のアルバイトも町内にある「三陸町あわび種苗センター」でお世話になった。ここは、三陸地域の特産物かつ高級食材である蝦夷鮑(エゾアワビ)の種苗生産事業を行う施設で、産卵、受精、孵化、様々な行程を経て稚貝から一定の大きさにまで育て、海に放流するまでの一手を担っている。相手は小さくデリケートな稚貝であるゆえ、清潔な環境を保つのに骨の折れる仕事であったが、これぞ「生き物を相手にする仕事である」と身をもって学ぶことができた。
このアワビ中心の学生生活を送っているうちに、もっとアワビのことを知りたくなり、4年次の卒論研究では、アワビの遺伝子研究に情熱を注いだ(魚類生理学/水産育種研究室/奥村誠一教授のもと)。その奥村教授の論文「エゾアワビ3倍体幼生の大型化について」は、後に水産学会で発表され、そこには私も携わっている(平成11年度日本水産学会:講演要旨721項より)。文字通り、アワビに恋して、三陸を愛しての学生生活であった。1999年卒業とともに三陸の地に別れを告げたが、私の青春全てを注いだ三陸こそが、まちがいなく第二の故郷になっている。
また当時は水族館や博物館(自然史系)で働くことに憧れており、在学中に学芸員の国家資格を取得したものの、水族館への道はあまりの狭き門で(私の力では全く歯が立たず)この道は断念となった。
■STEP3 (1999~2005年)/社会人時代 ~自分への挑戦~
そして社会人になると(一旦魚から離れ)薬品会社に就職、そこでは営業や輸出業に従事し、大阪をはじめ、東京、横浜を拠点に、仕事に忙殺される日々だった。ただ、好きな魚への想いはより強くなる一方で、本業の傍ら、休暇となれば釣竿を片手に世界各地へ魚釣りの一人旅をしていた時があり、それが私の20代でもあった。
その旅のキッカケは、作家の開高健(1930~1989)著書 “オーパ” との出会いに尽きるが、1970~80年代に作家が歩んだ魚釣りの旅を、1999年~2005年に私も同じように辿ってみるものであった。私の場合、カナダから始まり、北米(アラスカ、アメリカ本土)、中米(コスタリカ)、そして南米(アマゾン川、パンタナール大湿原)へと、そしてオーパ以外の番外編として、フィリピン、ミクロネシア、インドネシアの島々を巡り、ここで(日本では知り得なかった)フィッシングの世界基準を知ることになった。
そんな憧れの魚を求め世界中を旅する中、とりわけアラスカとの出会いが私の人生を変える大きなキッカケとなった。小型水上飛行機でツンドラの大地を駆け抜け、大自然の真っ只中にポツンと建つロッジに滞在しながら、朝から晩まで釣三昧の生活を送る。厳しくも豊かな大自然に身を置き、野生動物に囲まれながらのサーモン釣りは圧巻で、日常で失いかけた野生的な直感が覚醒し研ぎ澄まされるようだった。その感覚の心地よさが忘れられず、その後も数知れずアラスカを訪れ、いつしかアラスカに携わる仕事をしたいと思いはじめた。
そして2004年、結婚を機に私の一人旅に終止符を打つことになるが、その締めくくりも(カミさんを巻き込み?)ハネムーンとして再びこのアラスカを選んだのだった。
大自然の中、異国の文化や宗教に触れながら、海外で憧れの魚に出会えた感動は計り知れないが、何よりも私自身の将来と方向性をじっくり考えることができた特別な期間でもあった。それがこの旅で得たものであり、これぞ旅の真骨頂であると私は思っている。
そして、私の旅先でお世話になったフィッシングガイド達と将来の話をするうちに、今度は一人でも多くの方に、魚を取巻く素晴らしい世界へナビゲーションしたいという気持ちが強くなっていた。これが今の “フィッシュナビ” の原型であり、この考えが現在にまで至る。
■STEP4(2005~2018年)/事業へ挑戦(1)~フィッシュナビの誕生~
それを1つの形にすべく、29歳の時に一大決意。6年間勤めた薬品会社を辞め、2005年に私は旅行業に携わり、世界中のフィッシングツアーをコーディネートする事業(フィッシュナビ)を立上げた。 同じ “釣り” でも、自分自身で釣りをするのと、お客様にサービスを提供し釣ってもらうのでは、視点が180度変わるが、それが私の魚の知識や経験値をより高めることになった。
これはコーディネーターとしての私のポリシーであるが、まず自然と魚を相手にする以上、自然の力に逆らわず、そこに生息する魚の環境と資源を最優先にすること。そしてお客様を相手にする以上、お客様の安全を第一に考え、かつ私が持っている知識、情報、経験則を最大限に生かし、お客様の夢に向かって最善を尽くすこと。もちろん、そこに係る法律や規則を守ることは当然だが、お客様の命を預かるわけですから、誰よりも慎重かつ臆病であることがコーディネーターの素質として大切だと考えている(危険を恐れなくなったらコーディネーターとして失格である)。そんな強い信条をもって、私がお世話になった各国のフィッシングガイドと連携しながら世界中のフィッシングをコーディネートしてきた。
改めてこの14年間を振り返ると、初めは裸一貫からのスタートで何もかも手探り状態だったが、お客様の大切な夢を共にし、最終的には2243人(1105組)のお客様に支えられ、最後の最後まで途切れることなく、2018年に私の手掛ける海外フィッシングツアーのコーディネートを無事に終えることができた。
これは余談であるが、この2018年というのは、日本のパスポートが「世界最強」になった年でもある。ビザなし(もしくは入国時にビザ申請して入れる)で渡航できる国・地域の数が190カ国と最も多く、単独1位になった(2018年時点)。日本が世界とのつながりを構築しようと、手を取り合っていることを感じた14年間であった。
■STEP5(2019年~現在)/事業へ挑戦(2)~未来のために、私ができること~
それにしても昭和が遠くなり、平成も過ぎてしまった。そして新年号の令和となった今、まがいなりに「魚好き」という肩書を45年以上続けて気づいたことがある。
それは、「10代だからこそ出来たこと」、「20代だからこそ出来たこと」、「30代だからこそ出来たこと」、そして「今の40代だからこそ出来ること」・・、それぞれの世代にしか見えない景色や出来ないことがあり、そこにはいつも新しいチャレンジが待っている。少なくても今見える景色は、私が歩んできた積み重ねからきているのだろうと思う。
今まで私は、自分自身の成長に重点をおいてきたが、これからは(今まで培ったことを)多くの人に還元することに力を注ぎたく、「魚や釣りのアドバイザー」という未知なる領域で活動する道を選んだ。2005年創業から10年を経て、2015年にフィッシュナビを設立(法人化)に踏み切った。
現在は旅行業から退いているが、これまで培った経験と実績をもって、お客様の海外フィッシングツアーの相談を受け、それに付随するアドバイスや講習会を開催している。同時に後継者育成にも力を入れており、同じコーディネーターやガイドを目指す方へのアドバイス、そして事業立上げ手伝い、その後のフォローなども行っている。それは、お客様だけでなく 旅行会社などのエージェント、海外の現地会社、現場フィッシングガイドの方々まで、魚や釣りに関する様々な相談を受けるようになった。
ただ、時代は世の中が常に変化しながら進んでいるので、過去~現在の経験すべてが未来に通用するとは思わないが、私が今まで築いてきた礎が、次世代の若者たちや新たにこの世界を目指す方にとって、何らかのヒントになっているのは確かなようだ。
その為、お客様からご相談がある限り、(私の分かる範囲で)アドバイスを続けて行こうと思っている。
フィッシュナビから魚や釣りのことを学び、それをキッカケに新たなステップで活躍する姿を見るのも楽しみの一つ。それがフィッシュナビの存在意義であり、これが私の仕事や活動の原動力にもなっている。
過去から現在もそうであったように、これからの未来も変わることなく、私はひたすら魚のことを学び、魚の魅力を正しくかつ公正に発信し、お客様のキッカケになる第一歩に寄り添いながら、走り続けて行きたい。